2016年1月29日金曜日

囚われたもの。





気まぐれに見たストーリーの世界観には覚えがあった。

少し前に、何年か振りに受けたヒプノセラピーで見たものとそっくりだった。

こういうものではよくあるといえばそうなのだけど。

けれどもそれよりも、私の心を図らずも動揺させたのは、

物語のキーマンでもある脇役の彼だった。


瞳に暗い光を宿した彼は、

婚約者と師を嘲笑い亡き者にした支配者への復讐の為だけに生きていた。

彼はラスト、囚われの身になりながらも本懐を遂げ世界から去っていった。

その時の彼が敵に囚われた姿、状態が正に私の記憶と同じであったことが、

そして彼がその暗い瞳のまま消えてしまったことが私を動揺させたのだった。



私自身はもうその事に拘りは持っていない。

けれども、目にし、動揺したということは、まだ、あるのだろう。

深く追求することも無いが、まだあった、ということを知ったのには意味がある。

また、私にあったなら、他にもあり

今、解き放つ用意のある意識がある。のだろう。


そもそも、このブログではあえて、重苦しい部分に焦点を当てている。

それは、私たちにはもうそれらは必要が無い、ということを、

顔の見えないあなたや、あなたと、

かつての友であったあなた達と、

互いの共鳴の中で確認しあい、実行していく為なのだ。






上からの光が射すところもあれば

並んだところからの光しか当たらない場所もある。



私たちは、とっくに自由になっていい。


既に、自由なのだ。





自分達にはまだまだ先がある。ゆくところが、むかうところがある。


ならば、新しい道をゆこう。



新しい世界を目指そう。


新しい自分達に会いにゆこう。




時を戻し逆行するのではなく

全く新しい、しかしそれはオリジナル故の光を放つ

かつての自分であり、

また、かつての自身でもなく、


それをも超え深化したものでもあるということ。




それを望めば



誰もが等しくそうなれるのだと。








2016年1月9日土曜日

ワンダラーの使命について思うこと。


何を持ってここに来たか。

何も無い方は、きっと 「使命」だとか「ミッション」だとか云う言葉に
響かないのだと思う。
が、それも全てに当てはまるわけではないけれど。

そして、響いたからといって、何かを持ってきたわけでもない。
何かの穴埋め的感情、なのかもしれない。

そこの見極めは、自分にしかできない。


兎に角、様々な意図で、各々が存在しているのだから、

人と同じ理由を当てはめて終わりであるはずがない。

「腑に落ちる」ことが、必要。



「自分と認識されているこの個の特性を滞りなく発揮する」

という 「使命」とも「運動」とも言える、万物に適応するこれは、

多次元の自分のどこにフォーカスするかで、表現も内容も変化する。

ベースは不変だけど。


そして、
ワンダラーとしての自分の使命も、これらの中にあるものだと私は感じているのだけど、

具体的に拾っていくには、人からヒントはもらえても最終的には自力で思い出すしかない。

思い出す、と、認めるは同義語。


更に、その思い出したものを遂行するのかどうかは、ここにいる自分たちで選ぶ。

選ぶには、常に、自分内での照らし合わせが行われていないと、遅々として進まない。