2016年6月25日土曜日

ゲームは終わり。



感情を味わう。


目の前のことに向き合い

葛藤するなり、時には逃げるなりする。

それらは、人であるかぎり誰もが経験することであり

実体験を積みそこから得るものがあり、自己研鑽していく。



其々の計画や

段階により様々であり、つつがなく進められて行きたいものである。



けれども、それを

体験したいことであるとして、


シリアスに、ゲームだ。と言ってみたり、

ユーモラスに、ゲームなんだよ。と言ってみたり、

事実として皮肉に、ゲームさ。と言ってみることは、



もう、

やめればいいと、願う。



少なくとも、

観光や遊学に来たのでなければ

いい加減なところでやめないと

違和感に押しつぶされて

どこにも身の置き場がなくなるのじゃないか。





そうなると、もう到底起きてはいられない。

あまりにも苦痛で。




仕事人である君ならば。

そうかもしれない。
























2016年6月16日木曜日

自分の領域に留まる許可


自分の居たい世界に居ていい。


ということを、自分含め忘れがちな人もいるかと思い書き留めておく。



自分の居たい世界。

自分にとって心地よく、呼吸をしやすい波動域。


風も吹けば、雨も降るところでは

外からの影響を受けないわけにはいかないが、

何より自分から、その場所から出てはいないだろうか?


自分の根底に

理由は其々微妙に違うだろうが

「 この波動域に居てはいけない 」 

や、

「 この波動域に行かなければ 」

というものが無いだろうか? 自分の意志、意識とは関係ない。

知覚することで、昇ってはくるが。





外的環境のことではなく、あくまでも自分自身としての

自分の内的世界感での領域の話。

慎重に自分を観ているのに・・・・なぜ?

という現象を繰り返す人は、まず無意識に自動的に「やってしまっている」だろう。



許可しない、という遺物があるのなら

直ちに取り去ることが賢明。



自身の違和感に素直であることに

何の問題もない。





2016年6月13日月曜日

プロテクト。




例えば、自分の身を守る時には

幾通りもの所作が 「詩」 のように織り込まれている。



時には、

魔物と呼ばれるような異なる種族の侵入を拒むとき、

彼らの好物と心地よい暫しの眠りが用意されたり



時には、

自分を囲む光に「自分の個性」の賛美が縫い止められていたり、



時には、

繊細な力加減と、放出する情熱のコンビネーションで

無効化を図ったり、



その都度であり、決まった「カタチ」はなく

対峙する瞬間に生まれる

魂のやりとりだったりするのだろう、と思う。